峯岸みなみちゃん

夜中にやってる、中居くんの音楽番組があるじゃないですか。音楽番組っていうか、カラオケ的な番組。寝る前にテレビをつけてなんとなくチャンネルをまわしてて、あの番組の中でAKBの子が踊っていると、つい見てしまう。峯岸みなみちゃんが、たぶん毎回出演しているんだと思うんだけど、彼女はあの番組で踊っている姿がすごく可愛いなあと思うので、峯岸みなみちゃんを見たくて見てしまうのだ。


AKBの振り付けって、わたしみたいなおばさんから見ると、昔のアニメの中の男の子の考える理想の女の子像を極限までデフォルメしたみたいな動きで、ちょっと気持ち悪いなと思っちゃう。男目線の女の子らしさが、ほとんどギャグかと思うくらい過剰に詰まってる(というか、既にもうギャグにしか見えないレベルに達してる)。でも、中居君の番組でのAKBの子たちの踊りは、もうちょっと普通な、女の子目線の女の子らしさの踊りっぽい。それが峯岸みなみちゃんによく似合う。それで、着ている衣装も普段着の延長線上みたいな服で、なんかこう、西野カナとかを好きな女の子は、こんなお洒落をするんだろうなってそんな感じで、そういう普通な女の子の格好をして普通な女の子のダンスを踊る峯岸みなみちゃんは、すごく可愛い。


峯岸みなみちゃんの例の騒動があったとき、わたしは当時その動画自体は見なかったんだけど、ベリーショートになった彼女をどこかで写真で見て「この子はショートカットが似合うなあ」と思った。それまでの、やたらと長い、典型的AKB的ロングヘアが似合ってないとも思ってたから、きっかけはともかくとして、髪の毛が軽くなってよかったなあと思った。


軽くなった髪型で踊る峯岸みなみちゃんを見てると、意識下でいろんな考えを統制している女の子の図というのが、とても上手なかたちで表に出てるって感じがする。適当に頭がよくて適当にずるくて、適当に優しくて適当に意地悪で、どこで笑ったらチャーミングか、どこで振り向いたら相手をどきっとさせられるか、どうしたら自分が1番可愛く見えるか心得たダンスって感じがする。女の子のプロって感じがするのだ。
だけど、峯岸みなみちゃんのそれは、女優さん、たとえば石原さとみなんかのそれより闇が深くなくて、それは披露されているのがカラオケ番組の1コーナーっていう非常にどうでもいいような場所だからかもしれないけど、ただただ健気で、刹那的な感じもして、なんだか切ない。

「繕い裁つ人」

繕い裁つ人池辺葵

金曜日のあさイチで中谷さんがゲストで出演してこの映画の宣伝をしていたらしい。それは、私は見ていないんだけど。友人から「原作の漫画が面白そうだったけど、知ってる?」と聞かれ、調べてみたらネットで1巻だけ無料で公開していたので読み始め、いま4巻まで読んだとこ。

面白い。創作を仕事にしている人が普通に思い悩むことを、普通に普通に真面目に素直に描いた作品ですよね。創る上でのリアルな心と行動の揺らぎを丁寧に紡いでいて、そこに、ある種の理想というか、「こうだったらいいな」っていう願望を織り込ませてあるのが、読んでてとても気持ちいいなあと思った。

この漫画で一番惹かれたのは、絵の魅力です。好きなタイプのうまさ。洋裁をしっかり描く漫画だけあって、服を着た人物の造形にすごく説得力があると思った。いや、顔に関しては、ちょっと好みの別れるところだろうなあと思うんだけど(私は好きです)、洋服を着た肉体を魅力のある線で描くひとだなあと思う。服の下に肉体があるってことを見るひとにしっかり感じさせるデッサンで、そのうえでおおらかでユニークな魅力があるなあって。著作が少ないようだけど、まだ若いひとなのかなあ。こんなふうに形としての肉体を描けるなら、これを武器にして、もっと冒険もできそうな絵だなあと思う。


漫画にあんまり詳しくないけど、絵の上手い漫画家さんてたくさんいて、でもひとくちに「うまい」って言っても、色々な方向の上手さがあって、「絵が上手いですよね」って認められやすい漫画家さんもいるし、そういう方向ではそれほど評価されてない…されてないってこともないだろうけど、そこをとりたてて言われない漫画家さんもいる。
最近の漫画家さんで、「わあ、このひとはものすごく上手だなあ」と思ったのは、蟲師漆原友紀さんで、こんなふうに「自然」というか「世界」を絵にすることができるんだなあとすごく感動しました。蟲師のあとは作品はないのかしら…?

東京都庭園美術館

「アーキテクツ/1933/Shirokane」展 + 「内藤礼 信の感情」展

改修されてリニューアルオープンした庭園美術館を「建築」という観点から見せながら、同時にその同じ空間で、内藤礼さんによるインスタレーション「信の感情」展が開かれていました。建物のあちこちのすみっこに内藤礼さんの手による小さな木の人形がぽつんとたたずんでいる…といった内容の展覧会だったのですが、この企画はとても洒落ているなあというか、粋だなあと思いました。新しくなった建物の紹介の展示と、その中で、まるでこの館の精霊たちが挨拶でもしているかのような展示が共存していて。
図録の解説で学芸員の八巻さんが内藤礼さんのこの展示のことを「地鎮祭」と呼んでいるのですが、なんだか本当にそんな感じだった…うーん、地鎮祭っていうか…小さな人形が置かれたことで建物に改めて命が宿ったみたいというか、息を吹き返す合図がなされたみたいというか…なんだかそんなような、とにかく綺麗な新鮮な風が吹いている展示だなあと思いました。


内藤礼さんの木の人形はまるで館の精霊のようで…家や土地からぽこっと生まれでたばかりみたいな、あまりにもシンプルすぎるかたちをしていて、鼻も口もなく、だけど目だけが描き込まれていて、その多くが鏡をむいて立っているんですよね。すんでのところで人じゃないかもしれないような曖昧な形をした生命達、でも彼らが鏡のほうを向いて立っていることで、なにかを「覗き込んでいる」「見つめている」という行為、意思がそこに生じて見える。そしてその見つめているものが1933年に建った古めかしいお屋敷にしつらえられた鏡であるという事実に思いが至ると、鏡を見つめる人形、その人形を見つめる自分が、時間の長い長い流れの中に今立っているんだなあと、なんていうか…とても…なんだろう?しみじみと不思議な気持ちがしたなあ。

この古い邸宅の中でひそやかに、小さな呼吸を繰り返しながら、歩いたり立ち止まったりしているであろう人形達は、だけどこの展示が終わったらどこか別の場所に移動していなくなってしまうんですよね。「いま、ここにいること」について不意をつかれたように実感させられ、そして考えさせられる展示でした。


あと、小さいひと…ってことで、岡田君を思いだしました。

バカリズム×森山直太朗

SWITCHインタビュー 達人達 「バカリズム×森山直太朗


ああ、これはすごく面白かった。教えていただいて見た番組ですが、見られてよかった。

枡野さんの創作についての話はすごく面白かったんだけど、でもそれとは別に印象に残ったのは、話しているとき、どんな流れだったか覚えていないんだけど、とにかく思わず笑ってしまうような場面、直太朗さんが枡野さんの話に対してちょっと軽いつっこみ的な返しをしたときかなにかに、枡野さんがそれを決して笑顔で受けないのが印象に残りました。いや笑ってないわけじゃないんだけど、直太朗さんの返しにほとんどのっからずに、それよりも、自分の話を正確に直太朗さんに伝えたい、直太朗さんの問いにできる限り正確な答えを返したいという意思のほうを優先しているというか、それ以外のことにいつもより気がまわっていないというか、とにかくそんなような印象でした。作品についてとても高いプライドを持っているし、それにまつわる話を、会話の上でだけでも軽い扱いをすることに慣れていないというか、融通がきかないというか、うまく言えないんだけど…とにかくとても高いプライドを持って作品づくりをしていて、情熱が溢れている人なんだなあと、その話しぶりを見ていて、なんとなく思った。

直太朗さんは歌をつくるときに「無意識に予定調和を崩したいと思っている」とをおっしゃってて、枡野さんに「そのつくりかたはお笑いのネタっぽい」と言われていた。私は直太朗さん自身については、ラジオやテレビで話しているのを聞いて好感は持っていたのですが、歌をあまりちゃんと聞いたことがなくて。でも、これは印象の話ですが、これだけメジャーな活動をしている割にはどこかふわふわとしたまま、歌う歌にもご本人の佇まいにも、ちょっと不思議な存在感を保っておられる方だなあという印象があって、なんていうか、どこに居ても軽く違和感があるというか。それはもとからの性質というのもあると思うけど、同時に、「予定調和を崩したい」という、割に明確な自覚的な意志とあいまって出来上がっているものなんだなあと思いました。

映画『プレステージ』

プレステージ』の続き。たまたま迷い込んでこの文章を読んでしまう方もいらっしゃるかもしれないので念のためさいしょに書きますが、たぶん、かなりネタばれしてます。



魂を売ってしまうほどなにかに魅入られることに一抹のあこがれはあるけれども、でも実際にこれだけ壮絶になにかを追い求めるって幸せなことなのかな。ふたりはちっとも幸せそうじゃないし、アンジャーに至っては最高のマジックを手に入れてから一層不幸そうだ。彼の人生において最終的に何か得られたものがあったろうか?と考えれば、実質的な意味ではなにも手に入れておらず、むしろ失ってゆく一方だったし、彼の最高のマジックも、本当のところそれはマジックですらなく単なる結果を見せ続けているだけだし、そして死の間際には「ボーデンに勝った」という認識すら打ち砕かれてしまったのに、でもさいごは満足そうに見えるんですよね。
アンジャー(とボーデン)は、さいしょはお互いに対する憎悪や嫉妬にからめとられ、はりあったがために道をひきかえすことができなくなり、結果としてマジックという「美しいもの」をどうしようもなく追い求め続けずにはいられくなったんだろうと思うんだけど、彼らは、ふたり出会っていなかったら、こんなに壮絶に追い求めることはなかったかもしれないし、でもだからこそ、ひとりでは辿り着けないところまで行きつき、普通のひとには見ることが不可能な景色を見られたのかなと思って、とはいえ、その源が最初は憎悪から始まったんだと思うと、ああ、なんていうか…すごく胸にしんとくる。

アンジャーは身を滅ぼしてしまうけど、彼はその手になんにも持たずに逝ってしまったようでありながら、その実、人生に求めたものはもうすべて手に入れてしまったのかも、だから死んでしまったのかもしれないと思う。

映画『プレステージ』

クリストファー・ノーラン監督。憎悪と嫉妬がからまった奇術師二人のお話。

ああ、これはすごい。壮絶。さいしょはちょっとぼんやりした気持ちで見てしまったのです。だけど一度見終わって「あそこはどういう意味だったろう?」と見返していくうちに、単純な仕掛けに見えたトリックが実はもう一段も二段も深いものだと気がつき、見えていた景色ががらりと変わりました。何度か見返した今でも、なにが本当だろう、自分は今どのくらいだまされているだろうか、私の目に見えているのは何なんだろう、と思う。


「銀のくじゃく」という、安房直子さんの短い童話があって、それは美しいものに魅入られてしまった機織りの運命を描いたものなのです。機織りにとっての「美しいもの」、それは他人からは悪魔からの使いのように見えていて、そして実際に「美しいもの」に魅入られてしまった機織りは、さいごは美にとりこまれてしまう…といったようなお話です。


この映画を見ていて、なんとなく「銀のくじゃく」を思いだしてしまった。主人公のアンジャーは確かにマジックという悪魔に捕らえられていて、だって彼は舞台にたつたびに本当の意味で毎回自分を殺害するんですよね。でもその果てに奇術師として得られる最高の恍惚を味わい、やがて消えてゆく。そして一方でライバルであるボーデンもまた、マジックの前に自分の人生そのものを差し出している。
「魂を売る」って、言葉の上ではよく使われる表現だけれども、この映画の中では主人公たちの「魂を売った」生き方が映画全体のトリックとそのままぴったりリンクしてる…ってところに壮絶に胸をえぐられました。文字通りの意味の「魂を売った」人間が実際に「魂を売る」現場を、彼らの舞台を見に来た観客達はマジックとして見物し、また同時に、映画を見ている人たちはそれを彼らの人生そのものとして見せつけられる。入れ子みたいな構造の、贅をこらした不思議で綺麗な箱みたいな映画だと思った。


つづく

立原正秋『冬の旅』

駅前のスーパーで古本市が開かれていて、なにも買うつもりなく通り過ぎたのに、遠目からなんとなく青い表紙が目にとまったので戻って買ってしまいました。あと題名が好きだと思ったので。50円。

面白かった。愛憎と生きてゆくことの孤独、それらについての因果応報的な理をわかりやすく…洗いたてのシャツにアイロンをかけてぱたんぱたんと折り目をつけてたたんでいくがごとくに気持ちよく平易に解説してくれる…みたいな小説だと思いました。変なたとえですが。
愛されたい認められたいという思い、でもその答えは自分の中にしかないのであって人によってもたらされるものではないということ、誰しも傷と孤独と弱さをかかえ生きているであろうこと。若くしていろんな意味で多くのことが見えてしまうひともいるし、いつまでたっても見えないでいるひともいて、でも誰しもひとは未完成だという意味では一緒なのだということ。
ただ、この主人公の男の子は、ちょっと出来すぎてる上に態度が大人で腹が立つ。可愛くないー それが彼の弱さでもあり、一週回って可愛いのだとは思うんだけど。


木下恵介監督でドラマ化されているようで、主要登場人物のうちのひとり、主人公の義兄であるどら息子の役を田村正和がやってたみたい。主人公はあおい輝彦。機会はないだろうけど、もしも叶うことなら見てみたいな。