東京タワー(今更・・・!)

小説「東京タワー」を読んだので改めて映画を見直してみたんだけど、つくづく原作と映画は別物だなあと思った。
前に、ネットですこし映画の感想を拾って読んだときに、「松潤×寺島ペアのほうが感情移入しやすくて面白い」って意見が案外多くて、えー、そうかなあ?と私は不満だったんだけど。
いや、確かに恋をしているときのみっともなさについての話だったら、そっちの2人のほうがよりリアルなエピソードで構成されていて生々しいとは思うけど、でも私は、どうもこの2人の話は映画の中では蛇足なんじゃないかと思っていたのだ。
だいたいからし寺島しのぶ演じる喜美子って女が気にくわなかったんだけど、それが何故なのか、原作を読んでわかった気がした。
映画の喜美子って、そのキャラクターにあまり主体性が感じられなくて、好きになれないんだと思う。
原作の喜美子は可愛くてエキセントリックで、そしてなにより頭のいい女性だ。自分が結婚して腑抜けな夫と暮らしていることを、利用し、そして楽しむくらいのバイタリティがあるのだ。それに比べて、ひとつひとつのエピソードは原作と映画とでそれほど差はないのに、映画の喜美子の行動は(可愛くてエキセントリックなところは原作と一緒なんだけど)全て受け身なのだ。
そういうふうに女のひとを描くのって、あの映画の中ではちょっと陳腐だと思った。
小説「東京タワー」は、とても魅力的な年上の女性に恋する2人の男の子のお話だ。女性たちは多少現実離れしているけど、主人公はあくまでも恋をする男の子たちのほうで、そしてたぶん、「東京タワー」って、ただそれだけの話なんだと思う。ありえない設定だろうがなんだろうが、ただ純粋に「恋する」ってことを描こうとしている小説なんだろうと思った。
だけど映画は、どちらかというと女性側が主人公になっている。そしておそらく「映画を見にくる女性たちが、より共感しやすいように」と心を砕いた結果のせいなのか、魅力的な女性に、色々な要素、たとえば年齢に対するうしろめたさや、容姿のおとろえに対する焦りや、なんかそういったひどく現実的なものをつけ加えたために、『恋のお話』ではなくなってしまった・・・という印象だ。
映画「東京タワー」って、恋愛のお話ではなく、恋愛をしている状態にある中年女性のお話なんだと思う。きっと、つまり。詩史さんという、大人になりきれない、小さくて綺麗な部屋に住んでいる女性が、部屋から外へ出てみようと思い立つ話なんだと思う。(だから、そういう話だと思って見ていたので「松潤×寺島」のパーツは無くてもいいんじゃないか思っていたんだな。)