東京タワー

友達から借りて江國香織の「東京タワー」を読んだ。
映画を観たとき、「岡田君の透はなんかちがうなー」と思っていた。なんかもっと、いかにもモデル然とした人(アラタ君とか?ちょっとトウがたってるけど)のほうがはまるんじゃないかしらと思っていたんだけど、小説を読んでいるうちに、この透という人物をキャスティングするにあたって何故岡田くんが選ばれたのか、岡田君の顔が、どれほど重要だったのかがなんとなくわかる気がした。
「フライダディフライ」を観たときも思ったけど、岡田君はたしかに、素材としてとても魅力的なのかもしれない。顔の造作だけでなにかを語れる若い俳優という意味で。
江國香織の小説は一時期何冊か読んでいて、でも読んでいるうちに、濃密に流れる独特の空気に閉息感を覚えてしまって、次第に遠のいていた。久しぶりに読むとやっぱりなにかがちょっとうっとおしくて疲れてしまうのだけれど、とはいえ面白く読んだ。
しかしどうして映画の透は、「美しいものに触れると泣いてしまう癖が小さい頃からある」だなんておもしろキャラになってしまったんだろう?小説「東京タワー」では、音楽会のシーンで泣いたりしていないし、透自身の認識では「美しいものに触れて純粋に感動した」とさえ思っていないのだ。そうではなくて、好きなひとと一緒に聴くことで音楽が身のうちにあふれてくるという、なんの盛り上がりもなく地味ではあるけど、とても共感を覚えるいいシーンなのだ。原作の透のほうがよっぽど共感を覚えるし、浮き世離れはしているものの実在の男の子としてもおかしくない…と想像できる人物だった。どうしてあんなふうに変えてしまったんだろう?喜美子と耕二の恋の結末にしても、あんなに面白くしなくてもよかったろうに…と思うけど、でも、もしかしたら、わかりやすくするってああいうことなのかもしれないな。(いや、どうだろう?)


先日の「学校へ行こう」での、健さんと中学生たちのやり取りがどうにも楽しくて、何度もリピートして見てしまった。
三宅君は最近調子にのっているなあ!いや、そうじゃなくて、「学校へ行こう」という番組のほうが、三宅君の、というかメンバーそれぞれのよい面を、素直に鑑賞できる内容に変わってきたということなんだろうな。