カーネーション

カーネーション』すごいドラマでした。
すごかった。


感想 にはならないけれども、思ったことをつらつらと。


実は最後まで、私は、夏木マリが演じる糸子を好きになることができなかったのだけれども。でも最終話まで見て考えてみれば、この晩年の糸子のパートがあることで、そしてそれを夏木マリが演じることで、唯一無二の凄みを持ったドラマになったのだなあとしみじみと思う。主役が交替してからは、決して手放しで好きとは言えなかった。でも、「好きになれない」という感情をも、この『カーネーション』というドラマによって肯定され受容され呑み込まれていたのではないかな、と思った。




このドラマで私がもっとも心をつかまれたのは、戦争から帰った勘助にサエをあわせたことで勘助がパニックに陥り、その晩安岡のおばちゃんが「あんたの図太さは毒や」と言いにきた場面、そしてその翌日悪いのはおばちゃんのほうだとばかりに自己弁護で心を武装した糸子の姿に、だと思う。
「落語は人間の業の肯定だ」というのは立川談志の言葉だけれども。この、勘助に関するエピソードは、小原糸子というひとの持っている業を、こんなにもマイナス面から堂々と肯定してくれたのだ、と感じました。おばちゃんが悪いのではない、勘助が悪いのではない、また、糸子が悪いのでも勿論ない、けれど、「悪いのは自分ではない」と考えることで糸子は自分の心を守った(と私は感じたのだけれども)、それは、考えようによってはとても醜い心の動きだと思った。けれど、その結果として大きな落し穴にはまり、そこから出られなくなる心理や人間関係を真正面から描いたことで、その、自分を守ろうとする糸子の心の醜さ弱さをも『カーネーション』というドラマは許容し肯定したのだと思いました。それを見ることで、私も、自分自身が救われる気がした。神の目線を持った脚本だなあと思った。

周防さんの登場についても、同様のことを思った。周防さんは確かに魅力的なキャラクターで、糸子が心を通わせたただ一人のひとであるにふさわしい説得力のある人物であったけれども、それをきっちりと描きながらも、周防さんのずるさ、弱さ、醜さ、恋愛関係の喜びと愚かさの両方がきっちりと描かれていた。


その神の目線が、夏木マリパートになってからはすこし変化があったように感じました。孫についてのエピソードや、癌患者のエピソードにおいて、「糸子の言うことが正しい」と糸子目線で物語が語られる要素が大きくなったように感じました。そしてそれを演じるのが夏木マリであることで、よりその言葉が強いものに感じられ、私は反発を感じずにはいられなかった。

でも終ってみて思うのは、歳老いていくことって、つまりはそいういうことであるのかもしれないということです。判断力や感受性やいろいろな力が鈍り、一方でそれを補うかのように、自分を肯定する力が若いころより大きくなる(ましてや糸子ほどの成功をおさめ、影響力のあるお年寄りならなおのこと)。でも、それはどうしようもないことだし、悪くないことなのだ と、もしかしたら『カーネーション』はそう言ってくれていたのかもしれないな、と。

青年期を描いてきた神の目線よりもさらに俯瞰的な位置からドラマを再構築し、夏木マリ演じる糸子を大きく肯定することで、歳をとって鈍っていくことも、それをわがままに肯定するのも、また素晴らしいことなのだ、いかに滑稽であろうとくだらなくあろう(いや、実際には滑稽でもくだらなくもないけど)と、それを「素晴らしい」と言いきる力を持つことのほうが素晴らしいことなのだ と、もう一段高いところから更に大きく人生を肯定してくれたのではないかなあと。


そんなふうに「老境」を表現するには、尾野真千子さんの年齢では、やはりまだ無理だったろうと思います。


また、夏木マリという人選も絶妙であったのかもしれない。
ドラマを見ている最中は、尾野さんからの流れをもっと自然に演じられた女優さんがいたはず、と、ずいぶんと考えたものです。いくら夏木さんが尾野さんに寄せていったとしても、尾野さんと夏木さんでは持っている資質が違いすぎると思った。でも夏木マリの持つ個性、芸術家としてのアクの強さは、もしかしたら、現実の小篠綾子さんと近いものがあったのかもしれない(じゃなければ、99年の生涯にわたって服を作り抜くことなんてできないと思う)と考えたときに、ああ、尾野さんのパートで「物語」はきっちりと終わり、夏木さんのパートで現実との橋渡しが始まったのかなと思えてきました。糸子の人生の朝ドラ化が決まり、ドラマと現実がリンクし、そしてさいごのさいごにドラマは第一話のミュージカルの場面に戻りループするけれども、そういった物語の構造だけでなく、キャスティングからしても、本当は夏木マリが登場した瞬間から、現実とドラマとはすこしずつ混ざり合うようになっていたのかもしれないな。だからこそ、脚本が神の目線から糸子の目線にシフトしたのかもしれないなと思うし、そしてそのとき糸子(=小篠綾子)を演じるのは、やはり夏木マリのようなアクの強い、独特の美意識で貫かれた女優でなければ駄目だったのかもしれないな、と思う。


ああ、このドラマを見ている間中、制作者の手のひらで綺麗に転がされていたのだなあ、私は・・・と思いました。


人が生きていくということは、みっともなく大変なことだ。人は変わらないから、同じ過ちを何度でも繰り返す。でもそれでも、それだからこそ人生は素晴らしいのだと、そう思う強さを持っていいのだと力を込めてエールを送ってくれるドラマだったのではないかと思う。いや、こんなメッセージめいて書いてしまうと陳腐になっちゃうけど…


「表現」というものに対して、体当たりでぶつかっていくとこういうドラマになるのだなというか、うまく言えないけど…とにかく凄いドラマでした。