「木更津キャッツアイ」ワールドシリーズ

一番近所にある映画館が、今日が最後の上映になるので、仕事を早めに切り上げて観に行ってきました。
これで2度目です。
たいしてディープな木更津ファンとはいえない私でも、それはやっぱり、岡田君のファンになってからの5年間は、常に心のどこかにキャッツのことを思いながら過ごしてたんだな・・・なんて、映画を見ながら再確認してしまった。
なんかこう・・・・日本シリーズまでは、木更津キャッツアイって、いつでも気軽に遊びにいける、ネバーランドのような、お伽の国のようなものとしてとらえていたんじゃないかなと思うんですよ。でもワールドシリーズを見ることで、そこはネバーランドじゃなくて・・・いつかは別れを告げるべき、ひとつの季節だったんだなあ・・・なんて思ったりしました。
なんだか本当に、身近な知っている人を亡くしてしまったようで、大きな喪失感が残ってしまった。

一番切なく感じたのは、5年の間に、全ての登場人物が当たり前のようにその容姿に歳を重ねてしまっていることで、特に死んで成長(というか、老化?)がもう止まってしまっているはずのぶっさんが、もはやぶっさんの年齢の容姿じゃないことに気がつかざるをえなかった点です。
マウンドのシーンでぶっさんが、他のキャッツの面々に向って「(お前達は25歳だけど)俺は22歳で止まったままなんだよ」と言う、言っている岡田君のその顔が、それはもうやっぱり、どう見ても22歳のそれではなくなってしまっている。
木更津キャッツアイは、とても楽しい夢を見させてくれたけど、そこにとどまっていることはできないんだなと、本当にリアルに、決定的につきつけられてしまったようで、こんな現実は自分の生活にだっていくらだって転がっているのに、それを何故わざわざ2次元のお伽話の上で告げられなければならないのかという理不尽さと共に、だけど別れは、確かに悲しく寂しいことではあるけれど、でも『終わり』のその基点から振り返れば、全てのものを許せるし、全てのことを愛おしく感じられる。そして、終わることではじめて、その気持ちを心にしまって、また次の一歩を踏み出すことができる。
それを、「木更津キャッツアイ」というドラマを見る過程において、まるで自分の実体験のように経験させてもらった。それはとても幸せなことだなあ、なんて、帰りの電車の中でしみじみと考えたりしました。

私の、自分の身内が亡くなったときのことを強烈に思い出しました。
誰も彼がそんなにも早く逝ってしまうとは思っていなかったのが、ある日突然危篤状態に陥りました。そうとは知らずなんの気なしにお見舞いに行った私が、思いがけず意識のある彼に会った最後の人間になってしまった。死相が現われた顔を見て、もう何も言えず、ただ彼が差し出す手を握ることしかできませんでした。
なにか、もっとなにか、さよならの言葉を言えればよかったと、今でも思います。
電気ストーブがついた、夕日の差し込む自宅の部屋で、お父さんに見守られながら、感謝の言葉を口にして旅立つことができたぶっさんは、実はとても幸せな最期だったなあと思います。
とはいえ、バンビ、アニ、マスター、うっちーの、生きているぶっさんとのそれぞれの最期の場面も、とても好きでした。美礼先生のしじみのシーンは、この映画の中ですごく好きなシーンのひとつです。

ぶっさんのVシネスマイル2007バージョンですが、顔の下半分が異様なほどに変型(というか、移動?)していて、なんだか水木しげるの漫画の登場人物みたいでした。