なっち のこと(トゥーランドット)

たまたまチケットをいただいて、赤坂actシアターで「トゥーランドット」を観劇してきました。
出演 アーメイ、岸谷吾郎、中村獅童北村有起哉小林勝也早乙女太一安倍なつみ
演出・宮本亜門  衣装・ワダエミ  音楽・久石譲

いや〜、派手に装った舞台でした。なんていうか・・・お金を落とす壺みたいだなあと思った。誰も、特にはこの「トゥーランドット」という劇を上演するだけの必然性は持っていないんだと思うのです。必然性っていうか、自分の中の 衝動 みたいなものだけど。でも世の中には、大勢のひとに多額のお金を落としてもらうための容れ物が必要なんだろうな、たぶん。容れ物を満たすために、有名な演出家や音楽家が起用され、名を知られた俳優がキャスティングされ、大勢の観客がそこに集まる。
お芝居自体の必然性や切実さみたいなものは無いんだけど、ただ、その中で、それぞれのひとが精一杯の良い仕事をしている舞台だなと感じました。



思いがけず、なっちに感動しました。
私は昔から、彼女には並々ならぬ思い入れを持って眺めてきていたのですが。なっちの持っている痛々しさみたいなものに惹かれていたんですよね。モーニング娘。時代の、トーク番組での空気の読め無さ具合とか、往々にして自己アピールが過ぎるというか、いつも自分が場の中心にいないと落ち着かないように見えるところとか、常になにかが過剰だったり、欠落していたり、なんだかね、ものすごく、『女の子』だなあと思って見ていたんですよ。
いまどきのタレントさんは、その『女の子』の部分を上手に(ある程度)ソフィスティケイトされた形でテレビに出すことができるひとが多いと思うんだけど、なっちはそれができない、歯止めのきかない人なんだなあと思いながら見ていました。しかも、その姿が繊細に映ってアーチスティックに見える種類のひともいると思うんだけど、なっちはそういうタイプでもなくて、歯止めがきかない姿が、ただただ鈍感そうに映るタイプだなあと思っていました。その姿は、みっともなかったり、どんくさかったりするんだけど、でもだからこそ、目が離せなくなっちゃったんですよね。
それは、表現者(歌手でも俳優でも芸人でもいいけど)としては、決してマイナスなことではないと思うんですけどね。
ただ、表現者としての素養は持っていても、惜しむらくは彼女は、その、肝心の表現する術に、あまり長けていない・・・と私は思っていました。
容姿にそれほど恵まれていないってことが、その大きな要因だったんだけど。キュートなアイドル顔ではあるけれど、童顔すぎるのとスタイルがそれほど良くないために、年齢と共に、ルックスがちょっと厳しくなっていくタイプに見えるんですよね。
人前に出て表現する人たちって、演技力なり歌唱力なりよりもまず、そのルックスって大事だと思うんですよ。美醜とはまた別に、説得力のある姿が必要だな、と。特に、主役を貼るような立ち位置のひとは、あらゆる意味での総合点の高さを求められるものだと思うんだけど、でも、なっちはその点、あまり恵まれていると思えず、それはやっぱり、彼女の今後を考えると、辛いものがあるかな・・・と思っていたんですよね。

でも「トゥーランドット」を見て、端で茶々をいれながら観察しているだけの自分が、ひとの限界を勝手に見定めてしまうだなんて、なんておごったものの見方をしていたんだろうなと反省しました。
なっちの歌声に、胸を打たれました。説得力のある歌声でした。小さな体で舞台をところせましと駆けまわって、お芝居は決して上手とは思わなかったけど、彼女にしかできない役の魅力を作り上げていた。
役が、よくはまっていて、彼女に似合っていたことも幸いしていたと思います。彼女の空回りしがちな存在感が、そのまま役柄とシンクロして、真摯な印象を受けました。
喉も身体もよく鍛えられていて、おそらくとても努力をしているのだろうなあと思わされました。
というか、彼女はいままで、ずっと努力してきたのだろうな。アイドルとして一線を張っていた時期から、今までずっと。
彼女の活動の幅が、よいかたちで、もっと広がることを願ってやみません。


他のキャストでは、北村有起哉さんが良かったなあ。姿が綺麗だし、役者さんとして、肉体がよく鍛えられているのだろうなあと思いました。愛嬌も色気もあって、底を見せない感じが魅力的でした。


最近人気の早乙女太一君は、いかにも彼らしい見せ場・・・というか魅せ場が用意されていて・・・なんだかちょっと笑ってしまいました。いや、彼のせいじゃなくて、そのシチュエーションが「いかにも」だったので。なんというか、彼の出てくるシーンだけ、ある種の生々しさがあるんですよね。良くも悪くも。おもしろかったです。