さや侍

さや侍を見ました。
トーマの心臓みたいな話になってた。
でも、これは、この映画は素直に好きかも。



なにが良かったって、子役の女の子が良かった。
というのは、別にこの子が可愛かったとか、演技が上手だったとか、そういうことではなくて。
正直私は、この女の子をそんなに魅力的には感じなくて、むしろ映画の最初のほうでは「子役らしさが鼻につくかも・・・」と思ったし、「たえ」という名のこの役自体も可愛げがあまりない役なので、ちょっと見るのが辛いくらいに感じていたのだけれども。でも、この「たえ」のいいところが、見ているうちどんどん目につくようになっていったんだなあ。



たえは、決して可愛らしい子どもじゃない。面倒見のいい優しい女の子ではあるのだけれども、子どもらしい視野の狭さで正義感を振りかざし許容範囲が狭く、その様子がときに憎々しげに見える(←そういう描き方をされているというか、個人的にそう見てしまったってことかもしれないんだけれども)。それが、実際に演じている子役の持つ゛子役っぽさ゛みたいなものと絡み合って、いい具合に、というかむしろ悪い具合に?、奥行きの深い、味わい深いキャラクターになっていました。
その彼女が、父が戦う姿を目の当たりにし、父の姿に感動し自分も一生懸命になっていく。懸命に一途になっていく、その過程ですこしずつ、それまで彼女が幾重にもまとっていた鎧のようなものがはがれていき、彼女の核にある、綺麗な美しい、尊いものが見え隠れするようになっていく・・・『さや侍』はそういう映画だと思いました。というか、私はそこメインで見てしまいました。
映画が終盤に近づくにつれて、たえの表情が、どんどん美しく尊いものになっていきました。


たえという女の子は、松ちゃんが無から創造したものであると同時に、松ちゃんから見た子役の女の子像が反映されているとも思います。つまり松ちゃんは、こんな小さな子どもの、しかも女の子の、良いところも悪いところも人として公平に描くのだな、フラットな視線で同じ人間として捉え表現しているのだな。そのことに、私はちょっとびっくりしました。松ちゃんて、おんなこどもには興味があまりないというか・・・男性と同等に扱っていないんじゃないかなと思っていたから・・・それってつまりは、父親になったってことなのかな・・・
松ちゃんは、たえちゃんを丸ごと受け入れている。良いひとも悪いひとも、みな「生きている」という意味においては平等であり、存在することを許されている。その中で、心の芯の本当の本当の芯には、きっとどんな人も美しく尊いものを持っているのだと、それが松ちゃんの思想なのだろうと感じました。


主演の野見さんも、すごく良かったです。野見さんとたえちゃんのコンビが、補いあい、助け合い、もしかしたら一方が一方を下に見るような過程もあったのかもしれないと想像もするけれども、最終的には尊敬しあっている。よいコンビだと思いました。