今日のカーネーション

若い母親に向かって「老いるというのは奇跡を見せられることなんだ」と糸子が言う。それと同じで、今厳しい状況にいるあなたが笑顔でいれば、どれだけの人が希望を与えられ元気づけられるか。あなたが奇跡になるのだ。あなたにはその資格がある、と。

私はこの台詞を、今はまだ、うまく咀嚼できない。
確かにその通りだとは思うのだ。どんな状況であれそこにいてくれるだけで、そしてもしその人が笑っていてくれるのならなおのこと、まわりのひとは勇気や元気を与えられる。それはとても尊く奇跡的なことだ。

でもそれを、糸子に、口に出して台詞で言ってほしくなかった。

老いながら今まだ元気で動き回っている糸子と、二人のこどもを残して早く逝ってしまうであろうことを感じながら生きている母親と、どちらが幸福でどちらが不幸だなんてことは他人が簡単に言えることじゃない。でも、それでも、三人の娘を立派に育て上げ、長生きして、今なお現役で仕事をしている糸子の口からああいうふうに言われてしまったら、わたしはどうしても、彼女をうらやましいと思ってしまう。近しい人には出来るだけ長く元気でいてほしい、それはもう、どうしようもない切実な願いだ。たくさんの近しい人たちとのわかれを経験してきた糸子だけれども、でも彼女も彼女の娘たちも今は元気で、その糸子から「奇跡なのだ」と言われてしまったら、安岡のおばちゃんのごとく、自分はあなたのように強くはないのだとつぶやきたくなってしまった。

同じ時代を生きた大切な人たちのなかひとり生き残り(なつかしい奈津はまたもや行方知れずだし)、今なお凛々しく生きて行く糸子の寂しさ、しんどさを、重たさを、ずっと見せられてきたあとだというのに。