「アキレスと亀」

先日珍しく眠れなくなって、どうせ眠れないならばと夜中の3時頃起きだして、録画してあった「アキレスと亀」を見たのですが…びっくりした。なんていうか…まるで自分の話かと思った。いや別に、わたしはこの映画の主人公・真知寿(まちす)のように芸術を追い求めているわけじゃないし、芸術家でもないし、こんなふうにエキセントリックな行動をとるわけでは全くない(と思う)のだけれども、彼の世界を見る眼差しが、自分の知っている世界の手触りと「ああ、似ている」と思ってびっくりしてしまったのだ。


自分のことしか考えられないひと っていうか。
自分のことしか考えられないひとの人生を淡々と描いているのだと思った。自分のことしか考えられないひとが、自分というものを探し、ひとの言葉に惑わされたりしてあちこち迷いながら、時に困乱しながら、流れに流れてゆく。それって、本当によくある、当たり前の人生なんだと思う。私にはこの映画って、芸術家の生き方を描いているというよりは、ありふれた生のあり方を、真知寿という幾分エキセントリックな生き方をする人間にたくして描いているだけのように感じた。


真知寿は自分のことしか考えられないエゴの固まりなんだけど、でも彼のまわりだって、それぞれ、他人のことを思いやっているようで結局は自分のエゴにしたがって行動している。真知寿のまわりにはやさしさも親切もありふれていて、でも結局は皆、自分の人生が一番の優先事項で、そうして誰もが通り過ぎてゆくのだけれども、でもそれは、決して冷たいことじゃない。誰もが自分の人生を生きるわけだから、他人のために犠牲になったりはしないってだけのことなのだ。他人のために人生を犠牲にしているように見えるひとも、「他人のために人生を犠牲にする」という自分の人生を選んで生きているのだと思う。


「わたしのことどう思っているの?」と聞く妻(結婚前だけど)に対して真知寿は「好きだけど」と答えるけど、別に彼は妻のことを好きなんかじゃないのかもしれない。妻が好いてくれているから、居心地がいいだけだろう。一方で妻も、なんだかよくわからない真知寿の芸術に奉仕することで、自分の人生をなにかしらの夢で補正したいだけなのかもしれないと思える。映画は、それを良いこととも悪いことと言わない。ただ、それって当たり前のことだよねとばかりに、たんたんとその様子を描写しているように思う。


真知寿は芸術を求めるけれども、それは自分の中にあるものだから、外を見ている限り見つからない。彼が一番最初に画商に持って行った絵は、彼のあずかり知らないところでちゃんと売れてお店に飾られている。それは素晴らしいことだと思うし、一方でたいして意味がないことにも思える。公平に見たら価値があることのようであるけれども、でもその価値は、本当は彼自身が与えてあげなければ意味がないものなんだと思う。


平行線を辿っているかのようにも見えるエゴとエゴのぶつかりあいの末に、散々な思いを乗り越えて、さいごに小さな真実の心のふれあいが生まれ、映画はハッピーエンドを迎えたかに見える。確かにきっと、人生ってそういうものってことなのかもしれないし、あるいは、それはもしかしたら、北野監督自身の単なる希望、願望ってだけのことなのかもしれないというふうにも思う。