庄司さん

バラエティ番組における芸人さんたちの生き様を見るのが好きです。ひとが社会で生きてゆくことについての、ある種の(わりあいピースフルな)ユートピアがそこに築かれていると思うから。自分自身は、人間観察は実際にはあんまり得意ではないのだけれど、だからこそ、バラエティ番組を見ることで、社会で生きるということについてのひとつの凝縮形をお手軽に観察したいと思っている気がする。


気の利いたかえしのできない芸人さん、人間関係が得意じゃない芸人さん、存在感のない芸人さん。「腕がある」とは評されないような芸人さんでも、正直な自分の姿を認め、正直なままにデフォルメし、出演者全員の手を借りて試行錯誤しながら「キャラクター」として確立させていき、そうすることで、居場所を獲得してゆく芸人さんたちの姿に、感心してしまう。


品川庄司の庄司さんが、裸になって「ミキティー」と叫びだした頃、とてもびっくりして、感動した。庄司さん、ものがなしいほどにおかしかった。
 庄司さんて以前は、イケメンというにはちょっと中途半端な容貌で、芸人さんの中では頭の回転が早いほうではないし、どんな人なのか品川さんの影にかくれて人物像がぼんやりとしていた。だけどあるときから、余計な装飾は全て捨て、素の自分(←究極にデフォルメしたかたちの)以外はなにひとつ持たずにそこに存在することを、庄司さんは始めた。裸になって奥さんの名前を叫びはじめたってことだけど。
 そこまでに葛藤はたくさんあったに違いないと思うんだけど、文字通り裸になって自分の馬鹿をさらけだすことで初めて視聴者は庄司さんという個人を認識できるようになったと思う。庄司=筋肉馬鹿というかたちで。筋肉馬鹿は庄司さんのひとつの側面でしかないだろうけど、どうしようもなく本質的ななにかであることも、たぶん本当なんだろう。おそらく、どの時点かで、自分の小ささやダメさを全て認める強さを、庄司さんは手に入れたのだと思った。

 裸になって奥さんの名前を呼ぶ。最高にばかばかしくて、意味がなくて、でも、その姿はやさしくて綺麗だ。人々に宝石や金を分け与え続けた幸福の王子の、最後に残った鉛の心臓(優しい心以外なにひとつ持たない)さながら。


 という話をひとにすると、否定をされることはなかったけれど「でも、裸になって嫁の名前を言ったところで、面白くはないけどね」と誰もが言ったものだけれども。けどわたしは、そんな庄司さんの「ミキティー!」を、面白いって思ってたんだよなー


 バラエティ番組での庄司さんのように、あんなふうに生きられたらいいのかもしれないなと思う。自分はこれっぽっちの人間だってさらけ出し、一番低いところに立ちながら、世界にむかって愛をさけぶ。