メモ

あまちゃん
能年玲奈ちゃんがどんどん可愛い。自身が書いた脚本の中の女子を、こんなにもこんなにも可愛く体現してもらえる宮藤宮九郎の気持ちやいかに。一体どんな顔をしながらこのドラマを見ているんだろう。
能年ちゃんだけじゃなく、出演者がみんな、どんどんドラマにのってきた感じがするなあ。





辺見庸『私とマリオ・ジャコメッリ』
この写真家についてもっと知りたいという欲求で手にとった本ですが、これは辺見庸の言葉であり解説であり、辺見庸自身の思考なので、読みたかったものとなにかが違ったような気もするし、それに私にはちょっと難しくも感じ、正面切って読もうと思うと途中で集中が途切れてしまう箇所があったのですが、ひととおり目をとおしたあとで拾い読みしていくと、やっぱりすごく面白かった。がつんと心にくる。気をつけないと、それが自分のジャコメッリに対しての思考、視線になってしまう。

例えば………「死んだ小鳥が水に落ちたような音」が聞こえてくる。これはある作家がカメラのシャッター音をたとえたことばなのだが、これ以上幽玄な形容を私は知らない。
ジャコメッリの映像を眼にするときはいつもそうした音が耳の底にわく………こんな表現。


911について、その映像のもつ視覚的意味について触れている箇所があるのですが、この本がもし311のあとに出たものだったなら、それについてどう書かれていただろう。
3月11日は家にいて仕事をしていたのですが、地震と同時に停電になり、電気が復旧したのは深夜になってからで、そこではじめてテレビをつけて津波の映像を見ました。たくさんの命が木の葉のように流されていくのを見たけれど、それを見てもびっくりするほどに自分が何も感じなかったことに、私はずっと罪悪感のようなものを感じていました。どれだけたくさんの命のきらめきより、自分にとって大事で心を動かすのは、目の前にいる知っている大切なひとの生死だけだということ、次々と流れる津波の映像を、痛みでも悲しみでも恐怖でもなく、ただ淡々と眺めてしまったことにうしろめたさのようなものを感じていました。人でなし なのかな、他人ごとと思っているのかな、あるいは、なにかが麻痺しているのかなと。だけど、このひとの写真を見ていると、そういうことも、なにかもっと別の捉え方をしてもいいのかもしれないと思わされてきて、それはなにかをつきつけられているって感覚なんだけど。

そういえば、好きな銅版画の作家さんが、辺見庸の別の書籍の装画を手がけておられることを偶然発見しました。



少年倶楽部プレミアムの録画ができていなかった。ショック!