9月になったなあ

なんとか仕事が終わったので神奈川県立近代美術館別館での野中ユリ展へ。最終日だった。ぎりぎり!
野中ユリさんの仕事を初めて意識したのは若い頃に武田百合子さんの『言葉の食卓』の装幀を見たのが最初で、ああ、これはとてもとても特別だと、心を掴まれました。本のたたずまいがあまりにも綺麗で。今回の展示には、銅版画、コラージュ作品など、作家本人から美術館へ寄贈された作品の数々とともに装幀を手がけた本も展示されていました。

関係ないけど、今、博物館をつくるお話を読んでいるのですが(ノンフィクションの類いではなくて、完全に絵空事の小説)、その中に所蔵品を燻蒸するくだりが出てきて、登場人物は「たいていの物は、放っておけばただのボロボロした粉になってしまう。虫、黴、熱、水、空気、塩、光、全部敵だ。みんな世界を分解したがっている。不変でいられるものなんて、この世にはないんだ」と語る。

野中ユリ展を見ていたら、何故だかこの台詞を頭が思い浮かんできて、なんとなく、野中さんの作品て、虫の標本かなにかを作っているみたいだ、なんて思った。消毒して特別な術を施した昆虫の身体は、まるで生きているみたいに、でも完全に時をとめていて、それを息をつめながらピンで板に貼付ける。虫にピンが刺さる音が聞こえてくるような気までする。虫にピン、刺したことないから、本当の意味で想像でしかないけど。



帰りに久しぶりの友人と会って、お茶を。『人間仮免中』を読んで思ったことなど喋った。わたしは、主人公が生の秘密というか意味を知りたくて知りたくてたまらない人間で、その渇望する思いが彼女をとんでもなく極端な行動に走らせるのか?と思っていたのだけれども、友人は、いや、それは逆なんじゃない?と。主人公は自身が抱えている病気・統合失調症が辛くて辛くて、極限まで追いつめられ、だからこそ「生の意味」を手に入れるためにとんでもない行動を起こすしかなかったのだろう、と。なぜなら「生の意味」がなければ生抜くことができなかったろうから、と言われ、ああ、本当、そうかもしれないなあって目から鱗が落ちる気がした。統合失調症だろうが癌だろうが、病気は、ひとそれぞれ程度の差はあっても、みんな辛い。それを乗り越えるため、あるいは受け入れるために、人は、自分の心の中の、本当に本当に奥底に咲く花を見るんだなあと。