人形の家

『人形の家』

ルーマー・ゴッテンによるこの児童文学の作品を読むのは、小学生のとき以来で、わりに勧善懲悪的な内容だと思って読んだ覚えがあったんだけど、今読むと、当たり前だけどまたちょっと違う。



美しいマーチ・ペンは、高慢で意地悪な人形で、木で出来た素朴な一文人形であるトチーをはじめとした人形一家にとって「悪者」のように描かれている。トチーたちは、マーチ・ペンの嫉妬や悪意のために残酷な目にあわせられるけど、さまざまな悲しみや痛みを経たあとに、お話のさいごで、自分達の居場所を獲得する。自分達が自分達らしく、自尊心を持って生活できる場所。だけどトチーたちだけじゃなくマーチ・ペンにもまた、彼女にふさわしい居場所がさいごに用意されている。



マーチ・ペンが獲得した場所は、人形にとってしあわせな場所とはいえないのかもしれない。でも「それは人形らしくない」とか「人形としての生をまっとうしていない」と他人が思ったとしても、どんな状況が幸せかだなんて本人じゃなければわからないことだし、なにを「しあわせ」と思うかは状況が作るものじゃなく自分が選びとってゆくことだから、誰もマーチ・ペンのことを「かわいそう」なんて言えない。ひとはマーチ・ペンを「おろかだ」と思うかもしれないけど、彼女はそういうふうにしか生きることができないし、それでいい、それがいいのだ。



だからこのお話は、トチーにとってもマーチ・ペンにとっても、誰にとってもハッピーエンドなお話なんだなと思うけど…でも読後感は、優しさとか温かさとか爽快感じゃなくて、なにかもっと、冴え冴えとしたもので、それはこの本を読んでいると、作者のルーマー・ゴッテンの、人生の孤独を見つめる目の冷静さを感じてしまうからなんだと思う。ひとはどれだけ優しさや温かさに囲まれていても、本当のところは、ひとりで道を歩いてゆくしかないし、しあわせは心の中に自分で築いてゆくものでしかないのだ、と。
なんだけど、道徳的にも正しく真っ当に、家族が家族である意味やあたたかさ、重たさをもきっちりと描いていて、こどもの成長や目線を真っすぐに意識したものになっているようにも感じて、ああ児童文学ってこういうことなのかなあと思ったりしました。



このひとの描くお話の登場人物は、みんな自分の居場所を捜して生きている気がするな。
人形達が、自分達の意思では動けず、出来るのは願うことだけという、この設定に胸を焼かれる。