シドニー・パジェット

こどもの頃、ホームズ本の挿絵(昭和の時代に日本人が描いたもの)に「ホームズのビジュアルのイメージはこんな感じじゃない…」といつも不満をかかえていたものですが、中学生になってからだったか、シドニー・パジェットが描いたホームズ像を初めて図書館で見て、あまりの素晴しさに「これが正解だ!」と目から鱗が落ちるような思いがしたことをよく覚えています。頭の中で思い描いていたホームズ像まさにそのままだったんですよね。ちなみに、初めて見たのはボスコム谷の地面に寝そべるホームズの絵だったのですが。


ストランド誌に掲載されていたシャーロック・ホームズの冒険談は、シドニー・パジェットによる挿絵のおかげで更に人気が出たと言われいるそうで、シリーズの初めの頃に作者のドイルが描写したホームズの容姿は、いかつくて男らしい、インディアンのような風貌なのですが、それをパジェットは中性的な魅力をもったハンサムな男性として絵に表しました。ドイルはそれを見て「自分の思ってたホームズ像とはちがうけど、人気のためにはハンサムなのはいいことだよね」(←超てきとう訳)的なことを言ったそうなので、このへんのドイルのおおらかさというか、おおざっぱさというか、適当さ加減は、とても面白いなあと思う。


パジェットは、すごく上手い画家というわけでもないなあと思うのですが(きちんと勉強したひとのとても上手な絵ではあると思うけれども)、彼の描く絵には不思議な静寂が漂っていて、その静寂が、個性的で魅力的です。どれだけ臨場感あふれる躍動感のあるシーンを描いていても、それがどんなに丹念かつ達者な描写で表現されていても、なぜかどの絵も不思議と静かに止まって見えて、そして止まっているが故に、その場面が緊迫していれば緊迫しているほど、なんだかちょっとまぬけというか、すこし馬鹿馬鹿しく見えてしまうというか、とにかく不思議なおかしみがあるなあと思います。


いやもちろん、絵は、どんな絵だってたいてい止まっているものではあるんですが、例えば今にも動き出しそうな絵があるとするならば、パジェットの絵は、今にも動き出しそうな瞬間を描いているのに何故かぎくしゃくと止まってしまっている絵…そんな印象です。


そもそもパジェットの切り取る一瞬のポーズも、ちょっと面白い変わった姿勢のものが多いんですよね。そしてそのおかしさは、本人が意図したものなのかそうでないのか、切り取られた一瞬の中に封じ込められた怒りや恐怖、憎悪、驚愕……そんなものに振り回されている人間の愚かしさや悲しさ、切なさをかもしだしてもいるようにも思えて、陰鬱さと残酷さとユーモアを淡々と兼ね備えたシャーロック・ホームズの世界に本当に寄り添っているなあと思う。

表現者にとってしあわせなこと

シャーロック・ホームズを演じる以前のジェレミー・ブレットがイギリス国内でどういう評価を受けていた俳優だったのか私には想像しかねるんだけど、簡単に調べる限りでは、若い頃には世界的に有名な映画に大きな役で出演しているし、それ以降もテレビや映画で活躍し、そもそもは舞台で精力的な活動をずっと続けていていくつかの賞も受賞しているし、一般的にも名の知られた俳優さんだったことは間違いないと思うのだけれども、それでも、「ホームズに出会うまでは常に自分で役を捜していた」といった発言もしていた…となにかで読んだこともあり、もっと活躍したい、もっと俳優として飛躍したい、乞われたい…という忸怩たる思いを、本人はもしかしたら持っていたのかもしれない。


ホームズで世界的な人気を得て以降は、ホームズのドラマの撮影に追われて、そしておそらく健康を害していたため、ホームズ以外の役を演じる機会はあまりなかったようで、それはとても残念で、もっといろいろな役でジェレミー・ブレットの演技を観たかった。


だけどジェレミー・ブレットのホームズは、30年もの長い間、何度も何度もテレビで放映され、世界中でずっと愛され続けていて、それって、なにか人に鑑賞してもらうものを作る仕事をする人間として、こんなにも幸せなことってない。


今また『シャーロック』のおかげでホームズそのものが盛り上がっているように、シャーロック・ホームズの優れた映像化がなされれば、そのたびにきっとジェレミー・ブレット版の『シャーロック・ホームズの冒険』も注目を浴びるだろうし、それは、俳優としてほとんど永遠の命を得たようなことだなあ、と思う。
ジェレミー・ブレットは死の間際まで、演じるという仕事に魂を捧げていた人だと思う。本人の肉体はなくなっても、だけど、その魂はほとんど永遠のように、光る画面の中で生き続けるんだなあと思うと、ジェレミー・ブレットはとてもとても幸せな人だなあと思う。

『シャーロック』シーズン3まで観て

そんなわけで『シャーロック』は非常に芯をくった人物表現をしているなあと思う一方で、芯をくってしまっているがために、いろんなことが曖昧な原作と微妙に変わってきてしまっていることもあって、「原作に沿った表現」という意味ではちょっとやりすぎな気も…ホームズの人物像もワトスンの人物像も。ドラマが面白いので別にそんなことどうでもいいことなんですが。

お話の流れにも同じことがいえて、シーズン3はちょっと見ていて「風呂敷ひろげすぎだなあ…」と思わないでもないのだけれども、ただつきつめると結果このドラマがこういう場所へ行き着くのは当然のことのように思うし、ここまできてしまったからには今後どこへ行こうとしているのか、制作者たちは最終的に何を描こうとしているのか、行方が楽しみ。

ただ、原作を読んでいて「おなじみ感が好き」と思っている私自身の好みとしては、だから、『シャーロック』の中ではシーズン1の1作目とか3作目とか『バスカヴィルの犬』とかが好きで、こんなテンションでずっと続いていってくれたらいいのになと思ってたけど、でもそういうドラマシリーズだったら、今ほどの人気は集めなかったのかもしれないなあ。

ワトスン つづき

子供の頃から何度も周期的に読み返している小説って、シャーロック・ホームズだけなんですが、いや、別に、すごく夢中になって読んでいるとか、好きで好きでやめられないとか、そういうことじゃなく……小学生の頃読んでいた子供向けに書かれたホームズが好きで(偕成社から出ていたシリーズ)、その後もうすこし成長してから新潮文庫延原謙が訳した原作を読み、以来それを何度となく読み返しているのは、読むと安心するからって理由が一番大きいかも。読み慣れた本、見慣れた字面を眺めていると、落ち着く。


ホームズもののお話はコナン・ドイルがまだ20代の頃にはじまり40年もの長きにわたって執筆されたものですが、その間ずっとホームズとワトスンの関係は変わらない。40年間変わらないものって現実にはほとんど無い。いや、正確には、ワトスンの結婚で二人の間が疎遠になったり、「ワトスン、ちょっとホームズが疎ましくなっちゃったのか」という時期があったり、よくよく読めばホームズとワトスンの間にもいろいろな波風がたっていますが、でも物語の表面上はとても淡々とした関係が続くわけで、それもたぶん、読んでいて安心するひとつの理由かもしれない。ここに戻ればいつでもおなじみの世界が待っているという安心感。お話によって多少面白さに差はあるけど、でもホームズものって、どのお話から入ってもそれほど印象が変わらない。


加えて、若干の残虐風味があり、さまざまな因習に捕らわれた紳士やレディたちが登場し、霧につつまれガス燈が灯る陰鬱なロンドンが描写される、その雰囲気が、わたしは好きなんだと思う。


何度となく読み返しているけど、でも実際のところは読むってほどじゃなく字面を追っているって程度に近く、だから内容がたいして頭に入っていないことも多く、読むたびに「あれ、こんなこと書いてあったんだっけ?」と思ったりするわけですが、中でも読むたびにびっくりするのが、ワトスンという人間がとても孤独なひとであること。彼はロンドン大学で医学を修めたわりには戦争から戻ってきたとき「ロンドンには友人も親戚もひとりもいないし天涯孤独」と言っていたり、両親は早くに亡くなったらしく唯一の家族だった兄は飲んだくれの無精者で、その兄もまた早世しているんですよね。そしてそれについて親友のホームズにすら話さない。ホームズがワトスンの時計を見て兄のことを推理したとき、彼は珍しくホームズに対して怒りをあらわにする……ワトスンは、意外にも心に深い傷と闇を抱えているんだなあと思う。


原作以外のフィクションはほとんど読んだことないし、映像作品をいろいろチェックしているわけではないのですが、ワトスンの闇を正面から描いたものってあまり無いように思う。グラナダ版でもとても魅力的に演じられていたけれども、ワトスンのパーソナルな部分については踏み込まれることはなく、あくまでもバランスのとれた英国紳士然としていた。だけど現在進行形のドラマ『シャーロック』は、そこにスポットをあてていて、その表現が素晴しいなあと思う。
ワトスンは家族のことでしこりを胸に抱えて生きてきた人であり、元軍人であり、傷を負って戦争から帰還しでも平穏な生活に慣れることができない人であり、そしてまた、シャーロックに「むごたらしい死体は見慣れているだろう。もっと見る?」と誘われそのまま同行するような人間なのだ。だからこそひどく変わった人間であるシャーロックを素直に受け入れ、惹かれたんだなあと、納得させられてしまう。すごい!と思う。

ワトスン

グラナダ(ジェレミー・ブレット)版シャーロック・ホームズの冒険は、原作に忠実な映像を目指して作られ、実際その通りに出来上がり、原作通りという意味ではおそらく今後これ以上のホームズは出来ないだろう、最高のホームズと言われているそうです。
確かにあそこまでされてしまったらもうその方向ではやりようがないだろうし、あるいはまた、あれを超える映像化は色々な意味で今はもう無理なのかもなと思う。たとえばホームズを演じる俳優ひとりをとってみても、有名なチョコレート会社の経営者一族に生まれ何人もの使用人が働く大きな家で育ったジェレミー・ブレットは、たぶんホームズの時代の大英帝国の名残を身にまとった最後の世代の俳優だったんじゃないかなと思い、その空気感は今の役者さんではなかなか出せないんじゃないだろうか…って、…想像だけど。


でも、グラナダ版とは別の意味で、よりエモーショナルなうねりの中で登場人物を掘り下げ、えぐった描写でわかりやすくキャラクターを提示をするという意味では、今シーズン3まで放送されている『シャーロック』は素晴しいですよね。ワトスン、マイクロフトの描かれ方には、「頭のいいひとというのは、こんなふうに原作の登場人物を読み解くのだなあ!」と、感動してしまった。
特にワトソンの描写は秀逸だなあと思って。彼の過去について、出てくるエピソードは原作そのままなんだけど、こういうふうに表現されることによって、ワトスンが何故ホームズを選んだのか、ホームズの何がワトスンを惹き付けたのか、このドラマを見ていて改めて考えさせられ気づかされました。ワトスンはそもそも軍人であり、かつまた、孤独な魂をかかえた人であり、闇を持っていて、だからこそホームズに惹き付けられたのだと。

美しいと思うこと

シャーロック・ホームズを演じるジェレミー・ブレットの何がいいのかなんて話は30年前にイギリスで放送が始まって以来(84年に始まったそうなので、ちょうど30年ですね)世界中至る所で散々、かつディープに語られてきたことだろうから、改めて触れるのもおこがましいし恥ずかしいんだけど。
でも書いちゃう。
とにかく美しい。なんて美しい生き物なんだろうと感銘を受けずにはいられないのです。もちろん、そもそもが顔立ちも体格も整ったとても美しい容姿のひとではあるのだけれども、でもそれ以上に、その身のこなしと表情と目の輝きと…いや、なにがどうとは分析できていないから細かくは言えないけど、とにかく全身から発せられるオーラが、「美しい」としかもう言いようがないなあと。
わざとらしいほど慇懃な動きだけど、体重を全く感じさせず猫のように軽くて敏捷で(大柄なひとなのに!)、この動きだけで、毎瞬毎瞬奇跡を見せられている気持ちになる。(この身の軽さ、優雅さは、森田君の踊りと通じるものがあるなあと思う、ちょっとだけ)
嫌みなほどに気障な物腰も、冷笑や不機嫌そうな顔も、そして陰鬱さも、だけどふとした瞬間の目の輝きに「このひとはなんて優しい瞳をしているんだろう」と思わされて、冷たい外側と、奥底にある熱い体温とのその配合がなんともいえずチャーミングで感動的で、不意をつかれたように、とても引き込まれてしまう。

ジェレミー・ブレットのホームズというと露口茂さんの日本語吹き替えがとても好評で、私もずっと吹き替えで見ていたのだけれども、このたびの空前のグラナダシャーロック・ホームズ(ジェレミー・ブレット)ブームにあたって英語版に親しむようになったところ、これはやっぱり断然本人の声のほうがしっくりくるなあと。

吹き替えの声だと、わたしのなかでは、ホームズ像が格好よくなりすぎてしまう。昔から「グラナダ版ホームズは本当に素敵なんだけど、だけどちょっと、ほんのちょっと、若干、微妙になんだけど、素敵過ぎてしまっている」と感じていて、でもそのごくわずかな違和感が、本人の声で聞くと解消されるようになりました。ジェレミー・ブレットの声は吹き替えに比べるとすこし甲高く神経質で、なんだけど、この声があることで絶妙なさじ加減で「へんなひと、かわりもの」な側面が加味されて、より味わい深い魅力的なホームズ像になっていると思う。