高倉健

いろいろなことに一段落ついて晴れ晴れとした気持ち。駅ビルのカルディコーヒーで「コーヒーを選んで買う」という行為にときめく。ダイエーに入って通りすがりの台所用品なんかを見ていてもウィンドウショッピングの気分で楽しい。赤ちゃんを産んだばかりの友人が「はじめて子連れで西友に行って、すごく楽しかった」って言ってた気持ち、こんなふうだったのかなあとちょっと思う。


誘っていただいて、ある作家の個展を銀座に観に行きました。すごい、面白かった。作品に対しての私個人の感情とか好き嫌いとしては思うところはいろいろあるけれども、でもそんなことより単純に、とても高い技術を持ったひとが気が遠くなるような手間をかけて作った作品だった。妥当なのかそうでないのかよくわからない(手間としても制作費としても芸術的価値としても私の想像の範囲を超えている)値段がついていて、多くの人の心を動かす力があって、とにかく大きなお金が動いている。こういう世界があるんだなあ。


幸福の黄色いハンカチ
高倉健の追悼で放送されていたのですが、これ、はじめて見た。男の論理で作られた男の人の映画だなあ!と思いました。こんなにも無邪気に男性な映画って、今はもう作られないんじゃないかなっていうか、今はもうちょっと、中性的なものの見方というものが、もうすこうし当たり前みたいな顔して男性にも女性にも浸透しているような気がする。
男の論理って書いたけど、別にそれが垂れ流されてるわけじゃなくて、山田洋次監督が作家としてきちんと冷静に冷酷に把握して消化し、そして昇華されている、愛すべき映画でした。完全に「高倉健の映画」だけど、でもそもそもは武田鉄矢桃井かおりとの三者のバランスが素晴しいから、だからこそ高倉健が更にひきたつんですよね、きっと。とにかく武田鉄矢が可愛くて可愛くて(でもこの映画の中の武田鉄矢と、例えばつきあうのは…絶対嫌…と思ったけど)。ファッションも可愛いし動きも可愛いし、デリカシーの無さも可愛いし、若干の気持ちの悪さも可愛かった(つきあうのは絶対嫌だけど)。
対する高倉健も、かっこいい身体を駆使したかっこつけが情けなくて情けなくて、なんだったら女々しいくらいで、結局可愛らしかったし、そしてそして、桃井かおりも可愛かった。馬鹿で可愛くて賢くて、まだあどけないような顔立ちも女っぽい身体つきも含めて、切ないくらい可愛かった。こういう、男の人にとってのいい女、桃井かおりだからこそ、こんなに可愛らしく成立するんだろうなあ…

夕張の炭坑の家々がとてもとても質素で、こんなだったんだなあ。歴史的にはこの先の彼らの生活はおそらくもっと厳しいものになっていくのだろうけれども…この夫婦はこのあとどうなったんだろうなあ。
風景が大きくて広いロードムービーなわけですが、時代性もあるし、当時リアルタイムで大画面で見たひとの感動は、またひときわ…というか、きっと私には想像できないくらい大きなものだったんだろうなあと思う。


「あ・うん」
ところで高倉健が亡くなる前に私が直近で見た高倉健映画というと、これです。とても綺麗な映画だし出てくる俳優さんたちがみんな素敵で、特に富田靖子なんてもうほんとう「こんなに可愛かったんだなあ」とほれぼれしてしまうくらいなんだけど、でもこれ、嫌な映画だなあと思った。いかにも向田邦子原作らしい、結婚している男女の心の機微を描いた映画なわけですが、主人公の高倉健富司純子が美しすぎるものだから、見ていて、彼らが抱いている友達以上恋人未満的な感情だけが 貴いもの みたいに感じられて、彼らのそれぞれの配偶者(特に宮本信子)がまるで悪者みたいにちょっと見えちゃうなあ、嫌な映画だなあと思ってしまった。
彼らが心のうちに秘めているお互いに対する好意(なんだけど、それぞれの妻・夫は気づいている)は決して綺麗なだけじゃないわけで、二人のずるさや嫌らしさがもうちょっとひきたってこそ、さいごの富田靖子の、恋人のもとに駆けつける純粋な恋心や、それを応援する大人達の姿が美しいものとして昇華されるんだろうなあと思うのに…と感じてしまったんですよね。
またもっと違うとき……時間を置いてみたら、もっと違うふうに見えるかな。

トーべ・ヤンソン展

横浜での打ち合わせの帰りに「今日行かないと結局行き逃すかも」との危機感に急に襲われて「トーベ・ヤンソン展」に行ってきました。すごくよかった!素晴しかった。これはメモしておかなきゃと久しぶりにブログを開いてみました。


ムーミンは子供の頃に読んだきりで、いつかちゃんと読み返したいと思いながらいまだ実行していない…あとムーミンと関係のない短編集で割に好きな本が一冊ありますが、トーべ・ヤンソンにはその程度の馴染みしかない。…のですが、今回の展示のポスターやチラシのメインのイメージとして使われているムーミンの挿絵がすごく印象的で「これはぜひ行かなきゃ」と思っていたのです。


こんな世界的な作家をつかまえてこんなことを言うのはひどく馬鹿馬鹿しいのだけど、「このひと天才なんだな!」と興奮しました。ムーミンの挿絵っていろいろなグッズになっていて巷に溢れているから、多くの人がわりに簡単にそのイメージを頭に思い浮かべることができて、その絵から、世界や自然の厳しさとか深淵さとか、個々がひとりで生きて行くということ、孤独、不安、あるいはそれとは逆に、人々がよりそって生きていくということ、なんとなくそんな世界観を思い浮かべる人は多いと思うけど、そしてそれって当然ながらトーべ・ヤンソンのもつ彼女自身のパーソナリティーでもあると思うんだけど、すごいなあと感動したのはその世界観が、本当に小さな頃の落書きのような絵にも現れていることでした。いや、うまく言えないけど「世界観が現れている」んじゃなくてトーべ・ヤンソンの絵は「絵が世界」だと思ったんですよ。彼女は、表現者として「孤独を表現しようしている」んじゃなくて、彼女の筆から産み出されるものがそのまままるっと「孤独」であったり「愛情」であったり、つまり表現することと生きていることが一致しているんだと思った。

そしてごく若いうちから…というかきっと生まれつきのものだと思うけど、グラフィックデザイナー的な才能が早くから完成されていて、どんなに自意識が垂れ流されているような面倒臭い絵を描いていても、「他人に見せるもの」としての見せ方を強烈に意識していて、だから何を描いてもある種のユーモアを伴って伝わってくるんですよね。自分自身をクールに突き放してみることができた人なんだなと思う。


ムーミンというキャッチーなキャラクターを作品として産み出したことは、本人の心の中ではどういう位置づけになっていたのかわからないけど(ムーミンハウスをパートナーと作ったりして、もちろん深く愛していたであろうし好きであったことは確かだと思うけど)、彼女の持っているなにかが、例えばそれが管のようなものを通って流れていくのだとしたら、ムーミンがいたことで管が詰まることなくするっと流れていきやすくなった面があったんじゃないだろうか。そして、彼女が発信するなにかが、ムーミンというアイコンがあるおかげで他人に伝わりやすくなるという役割は、きっと、おおいに担っていたんだろうなあと思った。

闇と水の表現が綺麗でした。「不思議の国のアリス」と「指輪物語」の挿絵もあった。


ところで美術館に行って出るといつもたいていとても疲れる。久しぶりに行ったし、そもそもが寝不足だったし。帰りの電車で寝過ごしてしまって、帰宅したらもう16時だった。せっかく打ち合わせを午前中に、しかもわざわざ我が家に寄った方面まで来てもらったのに、結局こんな時間だよ、とちょっとがっかり。
仕事が終わらなくてイライラしてる。帰ってパソコンを開いたら納得のいかないダメだしのメールが入っていて、勢いにまかせて思わず本音…感じていた疑問とか企画に対する不信感を、返信で、あまりオブラートに包まず書いてしまった。身もふたもないことを書いてしまった、酷かった…と反省と後悔に苛まれていたけれども、辛抱強い内容の前向きな返答をいただく。ありがたいなあ。そして疑問点が多少解消されて(おそらく彼も疑問は持っているんだということがわかって)、それがすごくよかった。ありがたかった。

怒った顔

BSで放送されてた(のを何ヶ月か前に録画してあった)『リトルダンサー』を見ました。主演のジェイミー・ベルは、こりゃまあ美少年だなあ!とびっくりしました。公開当時に映画館で見ているのですが、そのときはダンスも含めてとても魅力的な子だなあとは思ったけど、これほど「綺麗だな」と思った記憶がないんだけど。なにがいいって、怒りを含んだ顔が非常に美しくて。大人びたような顔で怒り(に似たもの)を胸におさめようとするのに、一方でこのひとは、まだ子供だからかもしれないけど頬がすぐ紅潮するし特に両耳が赤くなりやすいみたいで、その様子が幼くて、観てて感情を揺さぶられました。


考えてみれば、誰かが怒っている表情を(お芝居で)見るのが、自分は好きかもしれないなあと思いました。いや、もうちょっと厳密に言うと、怒りそのものではなくて、怒りを抑制しようとして、でも御しきれていないような表情が。


そういえば岡田君のお芝居をはじめて「好きだな」と思ったのも、怒ったお芝居をしているときだった、かも。それは、プププの最終回だったんですけど。もうあまり覚えてないけど、みんなが勢揃いしている場所で、確か自分の母親に向かって蔑むような表情で怒っていた。かっこつけながら、でもこどもだから怒ることしかできないという風情で怒っていたような。
それから、ホームズを演じるジェレミー・ブレットの、特に初期の作品の、怒りを含んだ表情がとても好きです。怒りを、冷笑や無表情の下に隠した表情。あの表情を見て、ジェレミー・ブレットに惹かれてしまったのかも。


ジェイミー・ベルですが、今はどうしてるのかなと思って調べたら、ハリウッドで活躍するような俳優さんに成長してるのですね。容姿に少年の頃の面影が色濃く残っててほっとしました。最新作は『ニンフォマニアック 』になるのかな。検索したら凄まじいサドの役って、ほんと?気になる。

「THIS IS IT」

お盆だったので、あれこれちまちまと忙しかったです。お寺の用事があったり急な来客があったり。通常営業で仕事を普段通りすすめるつもりだったのだけれど、なかなか思うようにいかず疲れてしまうのでここは思い切って気分転換をと、夜は働かずに撮り溜めていた録画をいくつか消化しました。ホームズ関係以外の映像を、久しぶりに見た。

というわけで、マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を見ました。面白かった。なにかを作り上げていくことの困難と喜びに、幸福な気持ちになった。


自分はガラパゴス諸島で暮らしていたみたいだった…とたまに思うことがあるのだけれども、多感だったはずの中学高校生時代、同年代のひとたちが慣れ親しんだような文化にあまり触れないで育ってきてしまったことを今になって残念に思うんですよね。流行っていることをほとんど何も知らなかったから、当時のわたしは尾崎豊のこともシブガキ隊や光ゲンジのことも、ボウイやTMネットワークや金八先生矢野顕子やYMOのことも、聖子ちゃんや明菜ちゃんのこともあまり知らずに20代をむかえてしまった。紡木たくも読んだことないし、あだち充はかろうじて読んだけど、大島弓子三原順萩尾望都も当時は知らなかった。じゃあその間なにを見て何に親しんでいたのかといえば、特に何にも心を動かされることなく、ただただ自分のことを考えてばかりいたように思う。不毛な十代だった。

だからマイケル・ジャクソンのこともあまり知らなかった。80年代、曲がいくつも大ヒットし、そのmvがとても人気だったことはなんとなく目のはしに映っていたから情報としては知っていたけれども(ビートイットのパロディでイートイットってビデオが作られてたことも覚えてる)じっくりちゃんと見たことはなかったような気がするし、90年代以降も、意識して眺めたことってなかったかもしれない。

というわけで、この映画を見てはじめて、知って、深く納得したんですよ。世界中のひとが、どれだけマイケル・ジャクソンのことを好きで、彼の存在がどれだけ世界に影響を与えたのかということを。マイケル・ジャクソンが動く姿そのものが、今ではもう既に「文化」として定着している、そのくらい大きな存在だったんだなってことを。


終盤、ビリー・ジーンの場面で、さいしょは力を抜いて歌って踊っているのだけれども、だんだん気持ちがのって本気がこぼれだしてきてしまう。身のうちからリズムと音があふれだしてくる。とても圧巻でした。曲が終わったあとスタッフが「ロック&ロールの教会だ」と言葉をもらすのだけれども、ほんとうに、まさにそんな感じ。

ビジネスの上でも人生の上でも、いやこのひとの人生にビジネスとの境界線なんてなかったのかもしれないけど、生きて呼吸しているだけで生じる本当にさまざまな問題を抱えながら、だけどステージに立って歌って踊っている間は、マイケル・ジャクソンの中には完全に音楽しかなかったのかもな、と思った。彼の身体のなかには静かな教会があって、歌って踊っているときだけは完全にその教会の中に入りきって祈ることができたんじゃないだろうか、そんなオーラが、その姿にあった。

それから、大きな才能と、私生活と、人気と名声と悪意と中傷と群がるひとびとの思惑と、ひとりの人間がどれほどのものを抱えることができるのだろうと、映画を見ていて思った。マイケル・ジャクソンの姿は本当にほっそりとして、霞を食べて生きているひとみたいで、いや、そもそも人じゃないみたいで、でも彼が健全な容姿を保ったまま50代をむかえていたとしたら、あれだけの問題を抱えることはできなかったのではないかな、それ以前にもっとはっきりしたかたちで壊れてしまっていたのではないかなと思ったり。

あるいは、

50歳であの動きとあの声とあの体型を保っていたというのは、もう想像がつかないくらいすごいことで、それを節制してたもっていたのかと思うとなんとストイックな人だったのだろうと思い、音楽に対しての、それほど深い愛があったんだなあとも思った。

ただ、わたしのこの感想は、すべて「このあとすぐ他界してしまった」というセンチメンタリズムに裏打ちされてこそのような気もして、もしまだマイケル・ジャクソンが生きていて、ショーがまだ続いていたならば、本当に彼が伝えたかったこと、身をもって証明していた彼の姿は、同じ映画を見たとしても、私の心の奥にまでは到達しなかったかもしれないなあと、複雑な思いがする。

そして、「「ロック&ロールの教会」と云わしめたそのパフォーマンスが、マイケル・ジャクソンのごく初期の楽曲であり、「その子は僕の子じゃない」だなんてとても他愛もない歌であるビリー・ジーンであることも、とても感慨深いなあと思った。美しさというのは、本当に本当に危うく繊細なバランスで成り立っているんだなあと、ため息が出るような思いで考える。


あと、手が大きい人なんだなと思った。

アル・パチーノ

ところで友達にジェレミー・ブレットのことを話していたら、「ああ、岡田君に似てるよね。だから好きなんだね」と言われました。そうかな。似てるかな?ピンとこないけど。


先日アル・パチーノの『狼たちの午後』を見たのですが、若い頃のアル・パチーノは若い頃の岡田君にちょっと似てるなあと思ったんだけど。シャープな鼻の線とか大きな目とか、鬱屈したものがたまっているようなのに清潔感のある存在感とか、それに、小柄なところ。
そういえば岡田君、アル・パチーノ好きって昔言ってなかったっけ?と思って調べたら、木更津の頃に、『セルピコ』のアル・パチーノを真似したとか、そんなようなことを言ってたんですね。たぶん存在感とかお芝居に衝撃を受けたってことなのだろうけど、でも「おれ、パチーノ似てるんじゃない?外見も」って、意識してたところあったんじゃないかなー?なんて、ちょっと思っちゃいました。

セルピコ』は見たことないんだけど、『狼たちの午後』は面白くてびっくりした。どうしようもないようなチンピラなんだけどけっこういい奴で、太った妻と男性の恋人を持つ懐の深さ(?っていうかなんていうか)があって頭も悪くない…そういう人物がおいつめられていくのをとても魅力的に演じていて、エネルギーが身体の中に溢れかえっているみたいで、薄汚いのになんだか綺麗で、こういうアル・パチーノに若い男の子が憧れるっていうのは、なんとなくわかるような気がするなあと思いました。

ボスコム渓谷

毎週放送されている『シャーロック・ホームズの冒険』ハイビジョン・リマスター版の先週の放送は「ボスコム渓谷の惨劇」で、今週…というか今夜は「ソア橋」です。どちらも好きな作品で、第6シリーズまである中の第5シリーズの作品です。


ジェレミー・ブレットのホームズは「パジェットの挿絵から抜け出してきたようだ」と言われたそうですが、でも正直なところ、私自身が本当にそうだなあ!そのとおりだなあ!と思うのは、第2シリーズまでの最初の13作です。それ以降のものはよくないということではなく、この13作品の中のジェレミー・ブレットが、当時はまだ健康で身体のキレがよく痩せてもいて、もう本当に神々しいほどに素晴しすぎるのです。それに、シリーズ初期の作品は原作にほぼ忠実に話が展開されるので、単純に「ああ、あのお話がこんな素敵な映像で見られるだなんて!」と目と心が喜びます。なので昔は、最初の13作…うーん、第3シリーズも含め計21作かな…ばかりが好きでした。


でも今は、後期のシリーズも初期のシリーズに負けないくらい好きです。ワトスンもホームズもすこし歳をとって、ワトスンとの生活にすっかり慣れ切ってしまったのかホームズは最初の頃よりもうすこしこどもっぽく、ワトスンを信頼し切って無理なくわがままを言っているように見えて…実際大きなこどもに見えるシーンも多々…とてもチャーミングだし、それを苦虫をかみつぶしたような顔で受け入れ、お母さんのように甲斐甲斐しく世話をやくワトスンは、感動的なまでに暖かく素敵な人です。そしてなにより、それを演じているワトスンのエドワード・ハードウィックとジェレミー・ブレットの演技の掛け合いが素晴しくて、見ていてとにかく気持ちよくて楽しいのです。


「ボスコム渓谷」では、ホテルの庭で事件についての新聞を読むシーンが、二人の関係がよく表れているように思って、好きです。事件を担当するサマビー警部のことを語る二人、以前彼と一緒に解決した事件のことをうろ覚えのワトスンにすこしムッとするホームズ、でも「君の崇拝者だ」という言葉に自慢気にニコッとしてしまうところとか。こんな短いシーンの間に、二人の関係性や存在感が細やかに鮮やかに表現されていて、見ていてすごく楽しい。
そして、でもやっぱり、どんなときにもジェレミー・ブレットは美しいなあと、ため息が出るような気持ちで見つめてしまいます。


初期の13作品のようなひりひりするような緊張感溢れる色気は控えめになりましたが、後期の作品では、しみじみと味わい深く可愛らしいホームズと、ワトスンとの友情という暖かく複雑に絡まり合った繊細なドラマがより掘り下げられたかたちで見られるなあと思うのです。

まだらの紐

グラナダ版のシャーロック・ホームズは、シドニー・パジェットの絵をも、また、ドイルの原作と同じように「原作」として大事に扱っていたそうで、わたし程度のゆるいファンが見ても「ああ!パジェットの絵と同じ構図だ」とか「この登場人物、パジェットの絵にそっくり!」なんて興奮します。

シドニー・パジェットの絵を意識した画面づくり…という意味で、グラナダ版の中で特に好きな作品があります。「まだらの紐」です。「まだらの紐」の中の、呼び鈴の紐をステッキで打っているホームズの絵は、シドニー・パジェットが描いたホームズの挿絵の中でもわりに有名なほうだと思うのですが(「まだらの紐」が有名で人気な作品だからですよね)、グラナダ版「まだらの紐」のなにがいいって、この有名なステッキのシーンをドラマ本編の中では流さずに、お話が終わったあとエンドクレジットと共に流すところです。これ、素晴しい構成!
本編で「あれ?肝心の、呼び鈴の紐を打つシーンは映さないのか」と思わせておいて(ここが事件の重要な謎解きの一部分であるわけですが、でも映さなくても、ちゃんとドラマとして成り立つんですよね)、さいごのさいごにそのシーンが流れます。パジェットの絵そのもの…ではないのですがが、意識した画面づくりであることには間違いなく、そしてこのシーンをさいごにもってくるという方法が、シドニー・パジェットのあの挿絵を一幅の絵として鑑賞するかのような構成だなあ!と思って、なんかこう…すごくわくわくするんですよね。展覧会の絵を鑑賞するみたいな気持ちになる。ドラマ全体が、パジェットの「ステッキをふるうホームズ」の絵に集約されていて、そのために作られたドラマのように思えてきて、それがとても贅沢な絵画鑑賞みたいな気がして大好きなのです。音がステッキの音以外ほぼ無音(エンディングっぽい音楽は流れてますが)なところも効果的だなあと思います。
このときのジェレミー・ブレットの、紐を見つめる横顔も美しいし、たれさがった紐をステッキでうつ…だなんて、非常に間抜けな動作なのに、その動きも優雅で美しいです。さいごに「見たか、ワトスン?!」といった感じでくるっと振り向くところも好きです。